松本城(まつもとじょう)は、長野県松本市にある日本の城 | 日本の歴史と自然の美を楽しむ

松本城(まつもとじょう)は、長野県松本市(旧・信濃国筑摩郡筑摩野松本)にある日本の城

松本城(まつもとじょう)は、長野県松本市(旧・信濃国筑摩郡筑摩野松本)にある日本の城である。松本城と呼ばれる以前は深志城(ふかしじょう)といった。俗に烏城(からすじょう)とも呼ばれることがあるが、文献上には烏城という表記はなく誤りであるというのが松本市教育委員会松本城管理事務所の見解である。安土桃山時代末期-江戸時代初期に建造された天守国宝に指定され、城跡は国の史跡に指定されている。天守が国宝指定された5城のうちの一つである(他は姫路城犬山城彦根城松江城)。

天守(国宝)

天守(国宝)

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歴史

近世以前

戦国時代永正年間(1504-1520年)に、信濃守護小笠原氏(府中小笠原氏)が林城を築城し、その支城の一つとして深志城が築城されたのが始まりといわれている。

天文年間には甲斐の武田氏による信濃侵攻が開始され、1550年8月27日(天文19年7月15日)には林城・深志城などが落城し、信濃守護・小笠原長時は追放された(『高白斎記』)。武田氏は林城を破却して深志城代として馬場信春を配置し、松本盆地を支配下に置いた。その後は信濃小県郡の村上義清、越後国の長尾景虎(上杉謙信)と抗争し、北信濃に至る信濃一帯を領国化した。

1582年天正10年)、武田氏滅亡により城代馬場昌房から織田長益に明け渡された後、織田信長によって木曾義昌に安堵されたが、本能寺の変後の武田遺領を巡る天正壬午の乱において、同年6月には越後の上杉景勝に擁立され、小笠原旧臣の助力を得た小笠原洞雪斎が奪還する。さらに徳川家康の麾下となった小笠原貞慶が旧領を回復し、松本城と改名した。

1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の結果、徳川家の関東移封が行われ当時の松本城主小笠原秀政下総古河へと移った。代わりに石川数正が入城し、石川数正とその子康長が、天守を始め、城郭・城下町の整備を行う。

その後、大久保長安事件により石川康長が改易となり、小笠原秀政が再び入城。大坂の陣以後は、松平康長水野家などの松本藩の藩庁として機能した。水野家の後は松平康長にはじまる戸田松平家(戸田氏の嫡流)が代々居城とした。

1727年享保12年)には本丸御殿が焼失、以後の藩政は二の丸で執務がとられた。

太鼓門 高麗門

構造

典型的な平城。本丸・二の丸・三の丸ともほぼ方形に整地されている。南西部に天守を置いた本丸を、北部を欠いた凹型の二の丸が囲み、さらにそれを四方から三の丸が囲むという、梯郭式に輪郭式を加えた縄張りである。これらは全て水堀により隔てられている。現存12天守の中では唯一の平城。

水堀

天守

5重6階の天守を中心にし、大天守北面に乾小天守を渡櫓で連結し、東面に辰巳附櫓・月見櫓を複合した複合連結式天守である。大天守は、初重に袴形の石落としを付け、窓は突上窓、破風は、2重目南北面と3重目東西面に千鳥破風、3重目南北面に向唐破風の出窓を付けている。辰巳附櫓・月見櫓は、第3代将軍、徳川家光が長野の善光寺に参拝する途中で、松本に立ち寄るという内意を受けたため、当時の藩主、松平直政が建てた。赤い欄干を配して、風雅な雰囲気を持つ。家光の善光寺参拝は中止になったが、天守に付属する月見櫓としては唯一の遺構となった。

大天守は構造的には望楼型天守から層塔型天守への過渡期的な性格が見られ、2重目の屋根は天守台の歪みを入母屋(大屋根)で調整する望楼型の内部構造を持ちながら外見は入母屋を設けず強引に寄棟を形成している。ただ、強引とはいえ外見的には層塔型の形状を成立させているため、各重の屋根の隅は様々な方向を向いており、松本城天守の特徴のひとつとなっている。3階の、低い天井に窓のない特殊な空間が生まれたのはこのためで、パンフレットなどでは「秘密の階」と説明されているが、構造上は2重の上に生じた大屋根構造の名残りともいえる屋根裏的な空間を階として用いたことによるものである。内部は最上階(6階)の他に4階を白壁造りにするなど、ある程度の居住性が考慮されている。外壁は初重から最上重まで黒塗の下見板が張られており、この黒の原料は1950年(昭和25年)の修理工事着工までは墨によるものであったが、解体修理の際に漆塗りの痕跡が見つかったことから、修理工事が竣工した1955年(昭和30年)以降は黒漆塗りとなっている。乾小天守も構造的特徴は大天守と同様であるが、最上階に華頭窓が開けられている。

右から乾小天守、大天守、辰巳附櫓、その手前に月見櫓

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現地情報

所在地

交通アクセス

別名深志城、烏城(俗称)
城郭構造梯郭式+輪郭式平城
天守構造連結式望楼型(1593年頃か)
複合連結式層塔型5重6階(1633年改)
築城主小笠原貞朝、石川数正・康長父子
築城年1504年永正元年)
主な改修者松平直政
主な城主小笠原氏、石川氏、松平氏
堀田氏、水野氏、松平氏(戸田氏)
廃城年1871年明治4年)
遺構現存天守、石垣、土塁、堀、二の丸土蔵
指定文化財国宝(天守)
国の史跡
再建造物黒門、太鼓門
位置北緯36度14分20.76秒
東経137度58分8.83秒

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