竹田城は、現在の兵庫県朝来市和田山町竹田にあった日本の城(山城) | 日本の歴史と自然の美を楽しむ

竹田城は、現在の兵庫県朝来市和田山町竹田にあった日本の城(山城)

竹田城(たけだじょう)は、現在の兵庫県朝来市和田山町竹田にあった日本の城山城)。

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概要

縄張りが虎が臥せているように見えることから、別名虎臥城(とらふすじょう、こがじょう)。国の史跡に指定されている。また城下から遥か高く見上げる山の頂に位置し、しばしば円山川川霧により霞むことから、「天空の城」や「日本のマチュピチュ」とも呼ばれる。雲海に浮かび上がる古城の累々たる石垣群の威容は、名物ともなっている。

東に立雲峡を望む標高353.7mの古城山(虎臥山)の山頂に築かれ、縄張りは南北約400m、東西約100m。天守台をほぼ中央に配置し、本丸二の丸三の丸、南二の丸が連郭式に配され、北千畳部と南千畳を双翼とし、天守台北西部に花屋敷と称する一郭がある。廃城から約400年を経ているが、石垣がほぼそのままの状態で残っており、現存する山城として日本屈指の規模となっている。

朝来市は2012年4月に竹田城の管理・宣伝をする「竹田城課」を新設した。(2017年4月に観光交流課と文化財課に業務を移管され、現在は竹田城課は存在しない。)

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竹田城の戦い

やがて信長と毛利氏の間が次第に悪化すると、信長は播磨に羽柴秀吉を派遣した。天正5年(1577年)10月、秀吉は黒田孝高に迎えられ姫路城に入城、それから1ヶ月で播磨の諸将から人質をとり帰服させることに成功した。その後羽柴軍は二手に分かれ、秀吉率いる本隊は上月城を攻城、別の一隊は秀吉の弟羽柴秀長が3000兵を率いて但馬に進軍した。

秀長隊の狙いは2つあったのではないかと『史跡・竹田城跡』では解説していて、一つは毛利軍に帰服している但馬諸将の制圧、もう一つは生野銀山の確保が目標であったようである。竹田城は生野銀山を管轄しており秀長隊の第一目標になり、11月に秀長隊は真弓峠から但馬に侵攻、まずは岩洲城を攻城し、次いで竹田城を攻城した。

太田垣土佐守高所に城を築き立ち向かい候。御大将羽柴小一郎殿人馬の息を休めず逃集の一揆輩悉く切り崩し追い打ち在々に火を放ち竹田の城に寄せ懸かり候ところ、高山険阻に拠り岩石を投げ落とし手向かい候。寄せ手の面々物とも為さず山谷を打越え諸手より鉄砲三百挺筒先を相揃え打ち入り候えば、遂に叶わず降参、城を相渡し退き候なり
—武功夜話

と、竹田城では3日間の戦闘が繰り広げられた。しかし『戦国合戦大辞典』によると「(武功夜話)同書の史料的価値はすこぶる疑問とすべきで、実際にここでこのような戦闘があった真実性が乏しい」としている。また『信長公記』によると、

直に但馬国へ相働き、先山口岩州の城を落城し、此競に小田垣楯籠る竹田へ取懸り、是又退散、則、普請申付け、木下小一郎城代として入れ置かれ候キ
—信長公記

とあり、秀長が竹田城の城代となったとしている。

天正7年(1579年)5月、秀長は信長の命令で明智光秀支援のため竹田城から丹波へ攻め入ったが、秀長は竹田城に戻らず播磨に引き上げたと考えられ、毛利方の太田垣輝延が間もなく竹田城に入城した。翌天正8年(1580年)4月、再び信長の命により秀長が6400兵を引き連れ但馬攻めを開始すると、竹田城、有子山城はさしたる抵抗もせず降伏した。山名祐豊、太田垣輝延はその座を奪われ、山名氏と四天王と呼ばれた太田垣氏による支配は完全に終焉をむかえ滅亡した。

秀吉は秀長を有子山城主に、秀長配下の武将である桑山重晴を竹田城主にそれぞれ命じた。桑山重晴は後に和歌山城に転封となり、替わって但馬出石城前野長康、付将として豊岡城明石則実八木城別所重棟、そして秀吉に投降した龍野城斎村政広が竹田城の城主となる。この斎村政広によって現在の竹田城が完成される。

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城郭

竹田城は、険しい地形にありながら、曲輪のすべてを石垣で取り囲んだ総石垣の城郭である。山頂に築かれた城郭としては最後の近世城郭にあたる。縄張りなどから類推して近世初期と考えられる。竹田城は山名宗全がこの地に城を築くよう命じ、羽柴秀長が新しく縄張りを行い、その後の赤松広秀が文禄のころより豊臣秀吉の支援を受けながら、壮大な城へ仕上げたものと考えられている。

安土城のような大規模な石垣構造をもち、虎口枡形を有する。尾根の最高所に本丸を置き、その正面に天守台がある。本丸から三方向にのびて、北千畳曲輪、南千畳曲輪、花屋敷曲輪という大きな曲輪群を有している。面積は18,473m2にも及ぶ。石垣は穴太流石積み技法で、豊臣時代の山城に代表される遺構である。『ひょうごの城紀行』によると「竹田城は赤松広秀が三十代後半の働き盛りに築いた城ということになろう」としている。竹田城の特徴のひとつとして、北千畳曲輪、南千畳曲輪、花屋敷曲輪の3つの曲輪群の標高が331mとほぼ同じ高さに作られている。本丸の標高は351mになるので標高差は20mとなる。このことより、平面構成だけではなく立面構成にも高度な計算がなされ3つの曲輪群が計画的に配置されている。の総数は天守を含め20基前後が推定されている。

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開城時間・観覧料

毎年1月4日 – 2月末日を除き、ほぼ通年で見学が可能である。ただし、時期により開城時間が異なる。また、悪天候時には入城規制が行われることがあるほか、冬季は開城時間及び閉山期間を変更する場合もあるため注意を要する。観覧料は、高校生以上は有料だが、中学生以下と身体障害者手帳・療育手帳・精神障害者保健福祉手帳のいずれかを保持する人とその介助者は無料。また、年間パスポートや団体割引(高校生以上の大人20人以上で1人50円割引)がある。開城時間(2016年9月時点)

季節期間入城時間
(春)スプリングシーズン3月1日 – 5月31日8:00 – 18:00(最終登城17:30)
(夏)サマーシーズン6月1日 – 8月31日6:00 – 18:00(最終登城17:30)
(秋)雲海シーズン9月1日 – 11月30日4:00 – 17:00(最終登城16:30)
(冬)ウィンターシーズン12月1日 – 翌年1月3日10:00 – 14:00(最終登城13:00)

観覧料(2016年9月時点)

区分単位金額備考
大人(高校生以上)1人1回500円
中学生以下無料
年間パスポート1人1年1,000円毎年4月1日 – 翌年3月31日有効
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交通アクセス

鉄道

  • JR西日本播但線竹田駅」下車、同駅より徒歩・バス・タクシーのいずれか
    • 竹田駅には特急はまかぜ」のうち1・4号が通年停車、3・6号が臨時停車
  • 竹田駅より
    • 徒歩/車道ルート約50分、駅裏の山道ルート約25分または俵米神社の山道ルート約20分(但しこれらの山道ルートは足場が悪い上に階段が長く続くため注意)、南登山ルート約30分(こちらは全面舗装してあるので比較的歩きやすい)
    • バス/全但バス「天空バス」20分(毎年3月 – 11月のみ運行。多客期は増発)
    • タクシー/竹田城跡の中腹駐車場まで10分程度
  • JR西日本山陰本線・播但線「和田山駅」よりタクシーで竹田城跡の中腹駐車場まで20分程度

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別名天空の城、虎臥城、安井ノ城
城郭構造梯郭式山城
天守構造不明(天守台有り)
築城主山名宗全伝承
築城年1431年(永享3年)(伝承)
主な改修者羽柴秀長赤松広秀(斎村政広)
主な城主太田垣氏、羽柴秀長、桑山重晴、赤松広秀
廃城年1600年(慶長5年)
遺構石垣、堀、井戸など
指定文化財国の指定史跡
再建造物なし
位置北緯35度18分00秒
東経134度49分44秒

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