大阪府の城・岸和田城(きしわだじょう) | 日本の歴史と自然の美を楽しむ

大阪府の城・岸和田城(きしわだじょう)

岸和田城(きしわだじょう)は、大阪府岸和田市岸城町にあった日本の城である。別名千亀利城(ちきりじょう)。江戸時代には岸和田藩の藩庁が置かれた。本丸庭園は国の名勝、城跡は大阪府の史跡に指定されている。本丸および二の丸一帯の4.9haは千亀利公園として岸和田市が管理している。

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岸和田城。所在地は大阪府岸和田市

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概要

延元元年/建武3年5月25日1336年7月4日)の湊川の戦い楠木正成の部下として活躍した岸和田治氏という武将がおり(『岸和田治氏軍忠状』)、おそらくその一族によって1400年までに岸和田が開拓されたと見られる(応永7年9月28日『足利義満御判御教書』(『石清水文書』))。しかし、その頃はまだ城廓と呼べるものはなかった。

平成時代の発掘調査によれば、15世紀後半に現在の岸和田城跡から約500m南東に山城が築城され(岸和田古城)、16世紀初頭頃に放棄されていた。

その後『日本城郭大系』によると信濃泰義によって現在地に移築されたとしている。

羽柴秀吉紀州征伐の拠点として再築城され、その急ごしらえで造られていたものを、小出秀政が5重天守を上げる本格的な構えとした。松平康重の代に総構えと城下が整備され、岡部宣勝の頃、城の東側に2重、西側に1重の外堀と寺町が増築されている。文政10年(1827年)に天守を焼失。以降再建されないまま、明治4年(1871年)に廃城とされ、まもなく破却された。

岸和田城は猪伏山(いぶせやま)と呼ばれた小高い丘の上にあり、本丸二の丸を合せた形が、の縦糸を巻く器具「縢」(ちきり)に似ていることから蟄亀利城(後に千亀利城)と呼ばれるようになった。城内にある岸城神社は千亀利と「契り」とをかけて、縁結びの神社として知られている。桜の季節は花見名所となり、大阪みどりの百選に選定されている。。

日本100名城の選定対象となるものの、検討の結果、選定されなかった。

2017年平成29年)4月6日、続日本100名城(161番)に選定された。

復興天守

紀州監視の岸和田城

岸和田城は大坂城和歌山城の中間地点にあり、通説では岡部宣勝は徳川家康の妹の子で、紀州藩の監視の意味もあったとされる。

徳川御三家の一つである和歌山城徳川幕府の相互監視政策に例外は無く、徳川家康の子徳川頼宣の抑えの城としても城郭が整えられたのでは思われている。『深訪日本の城』によると、江戸城で徳川頼宣と岡部宣勝が対面した時、徳川頼宣が「貴殿が岸和田に移封されたのは、われらの目付のためだという風聞であるが、いかなる計策をもって紀伊をおさえるつもりか」と問いかけてきたのに対して、岡部宣勝は「われら小藩のものが、大大藩の貴殿のおさえるほどの策略を持ち合わせるきずもござらぬが、ただ足の裏に米粒がついたぐらいのことしかできませぬ」という返事をした、と解説している。このようなやり取りがあったと思われているが両藩は戦を交えることはなかった。

しかしながら、岸和田城の縄張が和歌山側より大坂側に厚い防御線を設けていることなど、矛盾する点も指摘されている。

本丸の復興櫓門 (櫓は合計15棟あった。)

本丸

天守

現在の天守は連結式望楼型3層であるが、正保年間に幕府へ提出された正保城絵図「泉州岸和田城図」では5層の天守が描かれている。初層は千鳥破風であったが、後に唐破風が取り入れたように見受けられる[8][9]。文政10年(1827年)11月20日落雷によって消失し、その後江戸幕府に復興願いを届出済みで、それによると3層の天守、2層の小天守とあるが結局は再建されなかったようである。天保年間に描かれた「岸和田城図」には隅櫓しか描かれていないので、この時には既に天守はなかったものと思われている。明治時代以後、天守台の石垣の横に一段低い小天守台があったと言われているが、これは二の丸にあった伏見城の移築櫓が3層であったため、それを代用していた可能性も指摘されている。天守台の大きさは南北、東西共に約18m、面積は336m²で、当時の岡山城と同規模の天守だったと思われている。現在の天守の高さは約22mであるが、当時の天守の高さは18あり、今の天守より約10mは高かったと思われている。また、本丸の面積は約4702m²ある。

現在の天守は昭和29年に市民の寄付や旧城主の子孫である岡部氏の要望などにより再建された。総工費は当時の金額で3460万円、設計士は一級建築士池田谷久吉、施工は岩出建設株式会社、工事は昭和29年1月6日起工、同年11月13日竣工。当初は図書館として利用されていた。また、平成4年には大改修工事も行なわれた。総工費は3億7801万円、設計は株式会社比石英二建築事務所、施工は岩出建設株式会社、工事は平成3年8月起工、平成4年8月31日竣工。

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犬走り

本丸の石垣には南東および南西側下部に周堤帯が存在する。これを犬走りと呼ぶ。城の防衛という見地から見ると非常に不利であり、なぜこのような構造にされたかはわかっていない。脆い泉州砂岩で造られた石垣が崩れるのを防ぐためという説が有力である。この犬走り周辺の石垣は平成11年 (1999年)6月28日の豪雨で崩れ、今は強度のある花崗岩で補修され色の違う石垣が見受けられる。また補修工事の時に、百数十基の墓石が発見された。年号は、永正、天文、永禄等16世紀前期-中期のものが多く、本丸の石垣は永禄年間(1560年)以後であることが裏付けられた。

八陣の庭

国の名勝(平成26年10月6日指定)。重森三玲の設計で、昭和28年(1953年)7月に着工し同年12月竣工した砂庭式枯山水庭園である。庭園は諸葛孔明の八陣法をテーマにしたとされ、中央の大将と先端の天・地・風・雲・鳥・蛇・龍・虎の各陣に石組みが配されている。

本丸南西側の犬走り

その他

施設情報

  • 所在地
    • 大阪府岸和田市岸城町9-1
  • 開場時間
    • 午前10時~午後5時(入場は午後4時まで)※お城まつり期間中の指定日は午後8時30分まで(入場は午後8時まで)
  • 休場日
    • 毎週月曜日(祝日・休日の場合、お城まつり期間中は開場)
    • 年末年始(12月29日~1月3日)
  • 入場料(天守)
    • 大人300円
    • 中学生以下無料

交通アクセス

電車

  • 南海本線 蛸地蔵駅 – 最寄駅。南大手門跡付近に所在する。
  • 南海本線 岸和田駅 – 特急停車駅。南口から徒歩約5分で東大手門跡(城見橋交差点)に至る。

バス

別名岸ノ和田城、滕城、蟄亀利城、千亀利城
城郭構造輪郭式平城
天守構造複合式望楼型5重5階(慶長二年、1597年築)
複合式層塔型5重5階(元和五年、1619年改)
現在:連結式望楼型3重3階、外観復興天守(昭和29年1954年再)
築城主信濃泰義か
築城年応永年間(1394年1428年
主な改修者三好実休小出秀政岡部宣勝
主な城主小出氏岡部氏三好氏
廃城年明治4年(1871年
遺構石垣、堀
指定文化財大阪府史跡・名勝(本丸庭園)
再建造物復興天守、櫓・門
位置北緯34度27分31.74秒
東経135度22分14.81秒

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