五箇山(ごかやま)は、富山県の南西端にある南砺市の旧平村、旧上平村 | 日本の歴史と自然の美を楽しむ

五箇山(ごかやま)は、富山県の南西端にある南砺市の旧平村、旧上平村

五箇山(ごかやま)は、富山県の南西端にある南砺市の旧平村、旧上平村、旧利賀村を合わせた地域を指す。

菅沼合掌集落

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地名の由来

赤尾谷、上梨谷、下梨谷、小谷、利賀谷の5つのからなるので「五箇谷間」となり、これが転じて「五箇山」の地名となった。この名称が、文献に出てくるのは約500年前、本願寺住職第9世光兼実如上人の文書が最初である。これ以前には、荘園時代に坂本保、坂南保、坂上保、坂下保、坂北保の5つの領に区別し「五箇荘」とも呼んだ。この五箇と呼ばれる地名は全国に約120ヶ所程度あると言われ、中国の故事より「五を一括り」を由縁とするらしい。日本で「五穀豊穣」や「五人組」「伍長」との語句などである。平家の落人伝説が「五箇」が多いとの所以は、「五箇」が山間地に多いことや落人が山間に逃げることから源平合戦の近隣の地域に伝説が多い。

菅沼合掌集落

歴史

五箇山には、縄文時代の埋蔵文化遺跡が約50箇所ある。約4,500年前(縄文中期前葉)土器が出土している。他の年代も含めての出土品は、磨製石斧・石皿・石鏃・石棒・石刀・土偶・耳飾り・ヒスイ大珠・御物石器などである。ヒスイの大珠が3個出土しているが、縄文時代のヒスイは全て新潟県糸魚川市の明星山のもので、日本海側との交流があったものである。また、御物石器と呼ばれる祭祀具と推測されるものは、岐阜・富山・石川で多く出土しており中部圏との交流も盛んであるようである。

平家の落人が住み着いたと伝えられている。1183年富山県石川県の県境にある倶利伽羅峠で、木曾義仲(源義仲)と平維盛平清盛の孫)が戦った(倶利伽羅峠の戦い)。この時、義仲は火牛の戦法で平家に大勝した。その残党が五箇山へ落人として逃げ隠れたとされる。物的証拠はないが、一部の五箇山の民家の家紋として残っているとされている。

また、南北朝内乱期に、吉野朝遺臣によって地域文化が形成されたとも伝えられており、『五箇山誌』(1958年)には「五箇山の文化は吉野朝武士の入籠によって開拓され、五箇山の有史は吉野朝からである。養蚕・和紙製紙は吉野朝遺臣によって始められ、五箇山へ仏教が入って来たのは後醍醐天皇第八皇子、天台座主宗良親王によってである。」という説もある。

白山信仰による天台宗系密教の地域であったが、1471年(文明3年)浄土真宗本願寺八世蓮如が現在の福井県吉崎に下向し、北陸一帯が一向宗の勢力となりこの地域も浄土真宗に改宗したようである[1]。北陸一帯の地名には「経塚」なる地名が残っているが、この地域にも天台宗系のお経を埋めた地を、こう呼んでいる。

江戸時代1690年からは加賀藩の正式な流刑地となった。流刑場所は、庄川右岸の8カ所で、軽犯罪者は平小屋と呼ばれる建物に収容され拘束の程度は緩かったが、重犯罪者は御縮小屋と呼ばれる小屋に監禁され自由を奪われていた。御縮小屋の一部は昭和年間まで残されていたが1963年38豪雪の際に倒壊。1965年に復元されたものが富山県の有形民俗文化財に指定され、流刑小屋として地域の名所となっている[2]加賀騒動大槻伝蔵もこの地へ流された。流刑地である五箇山には当地を流れる庄川に橋を掛けることが許されず、住民はブドウのつるで作った大綱を張り、籠をそれに取り付けて「籠渡し」として行き来した(現在は再現された籠の渡し残っており、人の代わりに人形が川を越える)。

気象条件が厳しい五箇山では、江戸時代、年貢を米で納めることができなかった。1780年頃の宮永正運著「越の下草」によれば「水田はもとよりなくして、穀類も、大小豆に過ぎず・・・」とあり、稲作が絶望的であったことが伺える。住民は、商品作物などを井波町城端町(現在の南砺市)の商人(判方)を介して換金し、年貢を納めていたが、多くの場合、判方から前借を行い次年度に返済するという自転車操業的な生計を余儀なくされた。借金が返せずに土地を手放す農家が出る一方で、判方の方も貸し倒れや廃業が相次ぐなど貸借双方で厳しい環境であった。大きな気象害の年には、数年間の間、判方への借金の延納や藩への借米でしのぐこともあったが、生活環境の改善や向上には結びつかず、1837年天保の飢饉の際には住民の約4割が餓死している。

相倉合掌集落

菅沼地区の合掌造り

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地理

周囲を1000m超の山々と庄川の峡谷に囲まれた陸の孤島で、五箇山から城端(富山平野側)に行くには難所中の難所の朴峠や人喰谷を超える必要があった。このような地理的に隔絶された環境から、加賀藩の流刑場として利用された。

南方には人形山という姉妹の雪絵がある山があり、五箇山のシンボルの山となっている。雪絵の姉妹に関する悲しい伝説はまんが日本昔ばなしにも取り上げられている。

五箇山の集落周辺は景観保護のために五箇山県立自然公園に指定されている。

相倉合掌集落

冬の五箇山

塩硝

戦国時代から江戸時代には、塩硝(煙硝)製造の歴史がある。石山合戦1570年(元亀元年) – 1580年(天正8年))の織田勢との戦いにも五箇山の塩硝が使われた。また、黒色火薬自体を製造していたとされる。日本古来から、古民家の囲炉裏の下には自然と塩硝は製造されていたが、五箇山では、自然の草(ヨモギ、しし独活、麻殻、稗殻…など)と、などで製造する「培養法」を使って、より多くの塩硝を製造した。16世紀後半には、前田家が加賀一帯を統治し、一向一揆が沈静化したころより、加賀藩に召し上げとして買い付けられる。加賀藩は、外様大名として100万石の経済力をもち徳川家の2分の1の石高を持っていたので、取り潰しの危機にあったが、裏では五箇山での火薬の原料を調達していたのである。しかし、この塩硝も、日本が鎖国を解いてから南米のチリからの硝石(チリ硝石)の輸入によって廃れてしまう。

茅葺屋根

五箇山の合掌造りの屋根は茅葺である。五箇山の茅葺はコガヤ(チガヤ)を材料とすることが特徴となっている。なお、現在はチガヤの採取量が全ての合掌造りに必要な分を満たせず、重要文化財や世界遺産を除く合掌造りは大茅(ススキ)で屋根が葺かれている家屋がある。昭和30年代までは「結」、集落の共同作業にて葺き替えを行っていたが、現在は富山県西部森林組合(旧五箇山森林組合)が屋根の葺き替え、茅場の管理・刈取りを行っている。

夏の合掌造り集落

地域の特色

この地域は世界的にみても有数の豪雪地帯であり、そのような風土から傾斜の急な大きな屋根を持つ合掌造りの家屋が生まれた。現在も南砺市(旧平村)の相倉地区や同市(旧上平村)の菅沼地区には合掌造りの集落が残っており、それぞれ1970年12月4日、「越中五箇山相倉集落」「越中五箇山菅沼集落」として国の史跡に指定され、1994年には重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。

1995年12月、隣接している岐阜県大野郡白川村白川郷荻町地区)とともに「白川郷・五箇山の合掌造り集落」として世界遺産に登録されている。

2009年平成21年)3月には、フランスミシュラン社発行の旅行ガイド日本編「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」にて最高峰の3つ星観光地に選ばれた。日本国内では17ヶ所が3つ星に選ばれている。また相倉集落・菅沼集落も2つ星に選ばれている。

2015年(平成27年)3月、アメリカのニュース専門放送局・CNNが発表した「Japan’s 31 most beautiful places」(日本の最も美しい場所31選)の一つとして選ばれた。

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