立石寺(りっしゃくじ)は、山形県山形市にある天台宗の仏教寺院 | 日本の歴史と自然の美を楽しむ

立石寺(りっしゃくじ)は、山形県山形市にある天台宗の仏教寺院

立石寺(りっしゃくじ)は、山形県山形市にある天台宗仏教寺院山寺(やまでら)の通称で知られ、古くは「りゅうしゃくじ」と称した。詳しくは宝珠山阿所川院立石寺(ほうじゅさんあそかわいんりっしゃくじ)と称する。本尊薬師如来

古来、悪縁切り寺として信仰を集めている[要出典]蔵王国定公園(第2種特別地域)に指定されていて、円仁開山した四寺(他は中尊寺毛越寺瑞巌寺)を巡る「四寺廻廊」を構成しているほか、若松寺慈恩寺を含めて巡る出羽名刹三寺まいりを構成する。

Risshakuji Temple.jpg

Risshakuji Temple (en:Yama-dera), Yamagata, Yamagata, Japan

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歴史

創建

立石寺の創建について、寺伝では貞観2年(860年)に清和天皇勅命円仁(慈覚大師)が開山したとされている。当寺の創建が平安時代初期(9世紀)に遡ることと、円仁との関係が深い寺院であることは確かであるが、創建の正確な時期や事情については諸説あり、草創の時期は貞観2年よりもさらに遡るものと推定される。立石寺文書のうち『立石寺記録』は、「開山」を円仁、「開祖」を安慧(あんね)と位置づけており、子院の安養院は心能が、千手院と山王院は実玄が開いたとされている。安慧は円仁の跡を継いで天台座主となった僧であり、心能と実玄は円仁の東国巡錫に同行した弟子である。安慧は承和11年(844年)から嘉承2年(849年)まで出羽国の講師の任にあり、東国天台宗を広める役割を果たしたことから、立石寺の実質的な創立者は安慧であるとする説もある。また、円仁が実際に東国巡錫したのは天長6年(829年)から9年(832年)のこととされ、この際、弟子の心能と実玄をこの地に留め置いて立石寺の開創にあたらせたとの解釈もある。立石寺には貞観2年(860年)12月の日付を持つ『円仁置文写』が伝わるが、この文書は必ずしも寺の創建年次を示すものではなく、この文書自体が後世の仮託とする説もある。貞観2年(860年)には、円仁は当時としては高齢の60歳代で、しかも天台座主の高位にあった。従って、この時期に円仁が実際に現代の山形県に出向いて立石寺を建立したということは、年齢と地位の両面から、文字通りの史実とは考えがたく、円仁の意を受けた安慧らによって9世紀半ば頃から徐々に寺観が整えられたとみるのが穏当である。 なお、根本中堂に安置されている木造毘沙門天立像は近年の調査によって9世紀頃の作であることが判明しており、円仁とみられる頭部のみの木彫像と同様、立石寺創建期の一例に加えられる。また、胸甲の上で甲締めの結び目を表していることや細い腰帯の下に幅広の腰帯を着けるなど珍しい甲制となっているが、これらは東北地方神将形の作例にしか見られないもので、平安時代には同種の作例がある寺院との間に繋がりがあったことを示唆させる特徴を持つ点でも注目に値する。

仁王門と彌陀洞

円仁の入定窟

立石寺には円仁(慈覚大師)の遺骸を安置すると伝える入定窟(にゅうじょうくつ)がある。史実としては、円仁は貞観6年(864年)、比叡山で没しており、立石寺に実際に遺骸が移されたという確証はないが、入定窟の上に立てられた天養元年(1144年)の『如法経所碑』が現存し、そこには「大師の護持を仰いで法華経を埋納する」という趣旨のことが書かれていて、この時代(12世紀)、既に円仁がこの地で入定しているとする伝承が成立していたことがわかる。昭和23年(1948年)から翌年にかけて入定窟の学術調査が実施され、金箔押しの木棺と人骨5体分、円仁像と思われる頭部のみの木彫像などが発見された。この木彫像の頭部については、目鼻立ちなどの特色から円仁像であることは認められ、作風から9世紀頃の制作であるとされる。

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中世以降

鎌倉時代には幕府の保護と統制を受け、関東御祈祷所となり寺は栄えた。本尊薬師如来坐像は元久2年(1205年)に修理されており、この時に本堂の修造が完了して十二神将像を造立した。後に兵火により伽藍を焼失し、13世紀中頃には幕府の政策により禅宗に改宗となった。延文元年(正平11年・1356年)、斯波兼頼羽州探題として山形に入部した後、兼頼により再建され天台宗に戻った。

文明14年(1482年)、雪舟等楊が訪れ写生している。

大永元年(1521年)、寺は天童頼長の兵火を受けて一山焼失した。永正17年(1520年)、頼長は山形盆地に進出した伊達稙宗と戦うが、この際、立石寺が伊達側に加勢したために頼長の怒りを買い、翌年焼き討ちを受けたものである。なお、現存する立石寺中堂は後世の改造が多いものの室町時代中期の建物とされている。焼き討ちの際に、比叡山延暦寺から分燈されていた法燈も消滅した。天文12年(1543年)、最上義守による再建に際して再度分燈することとなるが、元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ち後の再建時には、立石寺側から逆に分燈されることとなった。

立石寺は山形城主であった最上家(斯波兼頼を祖とする)と関係が深く、同家の庇護を受けていた。最上義守の母・春還芳公尼(しゅんげんほうこうに)は荒廃した堂宇の再興に努め、その孫(最上義守の子)にあたる最上義光(よしあき)も立石寺を援助した。義光の時代の分限帳によれば、立石寺には寺領1,300が与えられている。

元禄2年(1689年)に松尾芭蕉が旅の途中で訪れ、その時のことが『おくのほそ道』に書かれている。当地では名句「閑さや 巖にしみ入る 蝉の声」を詠んでおり、参道に句碑と「せみ塚」がある。

山壁に展開する寺院

文化財

重要文化財

  • 立石寺中堂(根本中堂)(建造物、明治41年(1908年4月23日指定)正平年間(1346年から1370年)の再建と伝え、慶長13年(1608年)の大修理を含め数度の修理を受けているが、現在は慶長13年の姿を保っている。公開。
  • 天養元年如法経所碑(考古資料、大正4年(1915年3月26日指定)天養元年(1144年)8月18日に、真語僧入阿らが妙法蓮華経1部8巻を書写して、霊崛のほとりに納めた旨が記されている。非公開。
  • 立石寺三重小塔(建造物、昭和27年(1952年7月19日指定)塔頭華蔵院境内の右側の岩壁に南面して掘られた岩屋の内にある、高さ2.5mの木造小塔。相輪に永正16年(1519年)の銘があることから、その頃に造立されたものと思われる。公開。
  • 木造薬師如来坐像(彫刻、昭和44年(1966年6月11日指定)膝部裏から元久2年(1205年)の修理銘が発見され、平安時代の作とされる。一木造秘仏、非公開。
  • 木造慈覚大師頭部 1箇・木棺 1合(附:木造五輪塔、元和四年木札、貞享四年木札)(彫刻、平成18年(2006年6月9日指定)平安時代前期の製作と推定される。非公開。

名勝史跡

立石寺納経堂

交通アクセス

石段は1015段ある。

立石寺の東にある千手院観音と、かつて山伏の修行場であった垂水遺跡を経由する山道もあり、「裏山寺」「峯の浦」と称されている。

その他

巨大滑り台

昭和25年(1950年)に寺が県立公園に登録されると観光ブームの煽りを受け、参拝客増加に対応するための「交通機関」として寺は全長約300m、高低差約150mの滑り台を建設した。これは参拝客に楽しく麓まで下ってもらうための意図があったとされるが、滑り台の斜面の角度が約30度ほどで加速がかなりつき、参拝客が火傷したり転落して負傷したりする事態が頻発するなど安全面で問題視され、結局、1970年代の初めに廃止されたといわれている。ただし、遊園地のジェットコースターなどスリリングな遊具があまり無かったこの時代の人々にとっては好評であったようである。この遺構は現在も残されている。

寛永寺の木造薬師三尊像

元禄11年(1698年)の江戸幕府の命により、当寺根本中堂本尊薬師如来坐像の両脇侍であった日光月光(がっこう)菩薩像および薬師如来を守護していた十二神将像は江戸寛永寺(現・東京都台東区)に移された。日光・月光菩薩像は寛永寺に現存し、同寺本尊の薬師如来像の両脇侍となっている(薬師如来像、日光・月光菩薩像ともに重要文化財)。いっぽう、立石寺から寛永寺に移された十二神将像は上野戦争で焼失した。

実写映画

3月のライオン 後編』のロケ地映画のラスト、将棋の獅子王戦の対局が高台の「五大堂」で行われた設定で、挑戦者が石段を昇っていくシーンと共に使用された。

根本中堂

根本中堂内部

石段

奥之院と大仏殿

五大堂より山寺駅周辺を俯瞰す

春の参道

所在地山形県山形市大字山寺4456-1
位置北緯38度18分45.2秒
東経140度26分14.6秒
座標北緯38度18分45.2秒 東経140度26分14.6秒
山号宝珠山
院号阿所川院
宗派天台宗
本尊薬師如来
創建年伝・貞観2年(860年
開山伝・円仁
別称山寺
札所等四寺廻廊
最上三十三観音第2番(千手院)
文化財根本中堂、木造薬師如来坐像、天養元年如法経所碑、三重小塔、木造慈覚大師頭部 1箇・木棺 1合(重要文化財)
山寺(国の名勝史跡

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