雲仙岳(うんぜんだけ)は、長崎県の島原半島中央部にそびえる火山

雲仙岳(うんぜんだけ)は、長崎県島原半島中央部にそびえる火山である。半島西方の橘湾を中心とする千々石カルデラの外輪に位置する。広義では、火山学上の「雲仙火山」と同義で、最高峰の平成新山をはじめ、三岳(三峰)とも呼ばれる普賢岳国見岳妙見岳、五峰(五岳)とも呼ばれる野岳九千部岳矢岳高岩山・絹笠山を含め、東の眉山から西の猿葉山まで、総計20以上の山々から構成される。雲仙岳の形の複雑さは、三岳五峰(三峰五岳)、八葉、二十四峰、三十六峰などさまざまな数字で表現されたが、観光上のキャッチフレーズとして「三峰五岳の雲仙岳」が多用されるようになった結果、狭義として八つの山(ときには三つの山)のみを指す用法も生まれた。歴史的には海上にそびえる山並み全体を指す名称である。行政区分では島原市南島原市雲仙市にまたがる。しばしば、旧最高峰の普賢岳(雲仙普賢岳)の名称と混同して用いられる。

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現代でも火山活動が続いており、1991年5月から1996年5月に9432回の火砕流が観測された。特に1991年6月に発生した大規模火砕流では43人、1993年6月の火砕流でも1人が死亡し、慰霊活動が行われている。被災家屋は251棟、経済被害は約2300億円に達した。

Fugendake 02 Pyroplastic flow area.JPG

雲仙普賢岳を東から望む

概要

最高峰の平成新山(1,483m)を中心に、周囲に、普賢岳(1,359m)、国見岳(1,347m)、妙見岳(1,333m)、野岳(1,142m)、九千部岳(1,062m)、矢岳(943m)が存在する。普賢岳や平成新山の溶岩は千々石カルデラ由来である。つまり、小浜温泉沖合いの橘湾地下のマグマだまりから供給されている。主峰は普賢岳(ふげんだけだが、1990年(平成2年)から1995年(平成7年)にかけての火山活動で平成新山(へいせいしんざんができ、こちらの方が標高が高くなった。また平成新山は長崎県の最高峰でもある。

火山噴火予知連絡会によって火山防災のために監視・観測体制の充実等の必要がある火山に選定されている。

古くは『肥前国風土記』で「高来峰」と呼ばれているのがこの山であり、温泉についての記述がある。雲仙はもとは「温泉」の表記で「うんぜん」と読んでいたが、国立公園指定の際に現在の表記に改められた。大乗院満明寺行基大宝元年(701年)に開いたと伝えられている。この満明寺のが「温泉山」である。以後、雲仙では霊山として山岳信仰修験道)が栄えた。また、行基は同時に四面宮(温泉神社)を開いたといわれている。祭神は、『古事記』にて筑紫島をあらわす一身四面の神である。この神社は上古には温泉神社、中古には四面宮と称されていたが、1869年(明治2年)の神社改正により筑紫国魂神社と改称され、1915年(大正4年)の県社昇格に際して温泉神社に戻した。島原半島中に10数の分社がある。

雲仙温泉としては、1653年(承応2年)に加藤善右衛門が開湯した延暦湯が始まりといわれている。水蒸気が噴出して硫化水素の臭いがたちこめる光景が「地獄」と形容される。キリシタン弾圧の舞台にもなった。天気のいい日には見通しのいい場所でから、西彼杵半島東岸および長崎半島東岸、佐賀県南部、福岡県筑後地方熊本県西部などを眺めることができる。標高が高いことから通信の要衝でもある。雲仙野岳には、長崎県防災行政無線警察庁などの中継所が設置されている。

普賢岳の山頂付近には、太平洋戦争中に陸軍レーダー基地が建設され、100名ほどが駐留していた。2021年現在、山頂付近は国立公園の特別保護地区に指定されておりたき火などが禁止されている。

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火山活動史

有史以前

活動史は、前期、後期の二つに大別出来る。活動は約50万年前に始まったとされる。前期には、火砕流マグマ水蒸気爆発を中心とする、爆発的な噴火を行っていたと考えられる。最初に高岳、絹笠岳、矢岳などが形成されて九干部岳火丘群となった。やがて噴火活動は北側に移動し、九干部岳や吾妻岳が形成された。その後、噴火活動は、溶岩ドームや厚い溶岩流を中心とする活動に移行した。10万年前より、野岳、妙見岳、普賢岳の順で火山活動が推移し、地形が形成されていった。

有史以後

  • 1663年から1664年の噴火1663年12月より普賢岳の北北東の900mに位置する飯洞岩(はんどういわから溶岩が流出し、全長1kmにわたって森林を覆った。翌年春には普賢岳南東山腹600mの低地、九十九(つくも島火口より出水があり、安徳川原へ流れ込み氾濫が起きる。死者30余名。
  • 1792年の噴火1791年11月から地震があった。1792年2月10日、普賢岳山頂の地獄跡火口より噴火が始まった。2月28日穴迫谷(あなさこだにの琵琶の首から噴煙、土砂が噴出した。3月1日より溶岩の流出が始まり2カ月近く継続した。3月22日には峰の窪からも噴煙が上がり、溶岩も流出した。3月25日には古焼頭からも噴煙が上がった。普賢岳の北東部に溶岩が流れ出し、全長は2.7kmとなった。また、1792年5月21日寛政4年4月1日)に雲仙岳眉山で発生した山体崩壊とこれによる津波災害は、島原大変肥後迷惑と呼ばれる、肥前国肥後国合わせて死者・行方不明者1万5000人という、有史以来日本最大の火山災害となった。その後も噴火は継続し、6・7月になっても時折噴煙を吹き上げた。
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平成新山の噴火と災害[ソースを編集]

噴火活動[ソースを編集]

現在の平成新山を形成した噴火活動は当初、1989年(平成元年)11月からの橘湾群発地震[8][9]に始まったとされていたが、その後の観測データの再検討により、実際は1968年頃より雲仙火山は活動期に入っていたことが判っている。最初の群発地震は1968年頃より始まり1975年まで継続し、1973年には眉山付近でも震度3を最高に有感地震が11回発生している。この活動の最終段階で普賢岳東側の板底(おしが谷)で大量の火山性ガスが噴出し、30本ほどのが被害を受けた。1975年には周囲に鳥獣の死骸が散見され、岩の割れ目からは高濃度の二酸化炭素が検出。この一帯は1792年の噴火のときにも火山性ガスが噴出しており、この岩場は毒石と呼ばれていた。1975年以降も低調ながら地震は散発的に発生しており、1979年6-9月には眉山東麓を震央とする最大震度5相当の強い揺れを筆頭に89回の有感度地震が発生している。島原温泉では溶存炭酸ガス濃度が1975年より急上昇し、30%も増えた場所もあった[10]。1984年4月より橘湾で群発地震が相次ぐようになり、葉山南側付近を震央とするM5.7、震度5の地震が8月に起きている。この地震を契機に島原半島の隆起が観測され始めており、橘湾からのマグマ供給が始まったとされる。

1990年(平成2年)11月17日に山頂付近にある神社脇の2か所より噴煙が立ち上り噴火。この噴火は2つの噴火孔より熱水の吹き上げと雲煙を認めるのみであった。同年12月には小康状態になって道路の通行止めなども解除になり、そのまま終息するかと思われたが、1991年(平成3年)2月12日に再噴火。さらに4月3日、4月9日と噴火を拡大していった。5月15日には降り積もった火山灰などによる最初の土石流が発生、さらに噴火口西側に多数の東西方向に延びる亀裂が入り、マグマの上昇が予想された。5月20日には地獄跡火口から溶岩の噴出が確認。溶岩は粘性が高かったために流出せず火口周辺に溶岩ドームが形成された。溶岩ドームは桃状に成長しやがて自重によって4つに崩壊。その後も溶岩ドーム下の噴火穴からは絶え間なく溶岩が供給されたため、山頂から溶岩が垂れ下がる状態になり、形成された順番に第1-第13ローブと命名された。溶岩ドームの崩壊は、新しく供給されるマグマに押し出されたドームが斜面に崩落することにより発生し、破片が火山ガスとともに山体を時速100kmものスピードで流れ下る火砕流(メラピ型火砕流)と呼ばれる現象を引き起こした。噴火活動は途中一時的な休止を挟みつつ1995年(平成7年)3月頃まで継続した。火砕流が世界で初めて鮮明な映像として継続的に記録された噴火活動である(過去には、プレー山などの火砕流が写真としては多く記録されており、小規模なものの映像も撮影されている)。

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災害の様態

噴火活動は島原半島、特に島原市深江町に大きな被害をもたらした。被害をもたらす主たる要因は火砕流と堆積した火山灰が豪雨により流出する土石流であり、これらが流れ下るコースに当たる水無川および島原市の千本木地区が大きな被害を受けた。また、火山活動中島原大変肥後迷惑の原因となった眉山の山体崩壊が懸念されたが、今回の噴火活動では眉山が火砕流から島原市中心部を守る形となった。

島原市・深江町以外の地域については風向きによって降灰があり、熊本空港では航空機の発着に影響を与えたこともあった。

1991年6月3日の火砕流

特に大規模な人的被害をもたらしたのは1991年(平成3年)6月3日16時8分に発生した火砕流である。

直前の状況(6月2日まで)

雲仙岳裾野を水源とする水無川の土石流は5月15日に最初に発生して以来、19日、20日、21日と立て続けに発生した。島原市はその都度、水無川流域の町に対して土石流の避難勧告を行った結果、住人の避難はスムーズに行われ、人的被害は発生しなかった。

だが5月20日、普賢岳に溶岩ドームが出現すると日に日に成長を続け、24日にはドームの一部が崩落、最初の火砕流が発生した。これ以降、小規模な火砕流は頻繁に発生し、その到達距離は26日に溶岩ドームから東方に2.5km、29日には3.0kmに達し、次第に長くなる傾向が見られた。火砕流の先端が民家から500mに迫った26日、水無川流域にある北上木場町、南上木場町、白谷町、天神元町、札の元町に対して、島原市から火砕流の避難勧告が出された。

マスメディアを中心とする報道記者やカメラマンはこの火砕流の様子を捉えるため、避難勧告地域内ではあるが、溶岩ドームから4.0kmの距離があり、さらに土石流が頻発していた水無川からも200m離れていた上、40mの高台となっていた北上木場町の県道を撮影ポイントとするようになった。この場所は普賢岳を真正面に捉えることが出来たこともあってメディアに好まれ、いつしか「定点」という呼び名が定着した。こうして最初の火砕流が発生した24日以降、「定点」には10数台もの報道関係者の車両が並ぶ状況となった。1991年当時、報道各社は紙面にカラー写真を多用し始めており、普賢岳災害においても各社はカラー写真で競い合っていた。5月28日に『毎日新聞』が火砕流の夜間撮影に成功すると、競争は更に激しくなった。

また火砕流が初めて鮮明な映像として記録されたことは世界中から大きな注目を集め、多くの火山学者や行政関係者も避難勧告地域に立ち入って取材・撮影を行っていた。5月28日、建設省(当時)土木研究所の職員が溶岩ドームから500m下の火砕流跡に入域して撮影した写真を公表。6月2日午後には別の学者グループが火砕流跡の先端部に入って約1時間現場を調査し、その模様を撮影して公開した。

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雲仙岳の防災

山頂付近になお不安定土砂(火砕流堆積物)が多数存在しており、豪雨時には土石流となり下流の集落、国道などへ流下してくることから、山麓では治山砂防事業によるダムの設置、緑化工事、導流堤の設置など、大規模な防災施設の設置が進められている。

気象庁では2003年(平成15年)に雲仙岳をランクA「とくに活動度が高い火山」に分類し、2007年(平成19年)からは噴火警戒レベルを導入している。ただし1997年(平成9年)以降は、小さな噴気活動や火山性地震は継続しているものの、噴火活動は発生していない。

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