赤穂城(あこうじょう)は、兵庫県赤穂市にある日本の城

赤穂城(あこうじょう)は、兵庫県赤穂市にある日本の城。江戸時代は赤穂藩(加里屋藩)主の居城。国の史跡に指定され、本丸庭園と二之丸庭園は名勝に指定されている。別名・加里屋城、大鷹城。日本100名城日本の歴史公園100選にも選定されている。

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大手門(高麗門)二層隅櫓[1]

大手門(高麗門)二層隅櫓

概要

江戸時代、赤穂藩の政庁が置かれた。

赤穂城の前身となる城郭は、池田長政によって慶長5年(1600年)に築城されたとされる「掻上城」である。「掻上城」は絵図や発掘調査から、現在の赤穂城本丸と二之丸とほぼ同じ位置に存在したことが明らかになっている。その後も池田家の家臣で赤穂郡代となった垂水半左衛門勝重や、赤穂藩主となった池田政綱池田輝興によって改修がなされたものの、簡略な城郭であったとされる。

正保2年(1645年)に浅野長直が赤穂へ入封すると、慶安元年(1648年)に築城願を幕府へ提出、同年に築城に着手した。これが現在の赤穂城であり、元和偃武の後に築城の始まった全国的にも珍しい城郭として著名である。現在では海岸線から離れているが、築城当時は赤穂城のすぐ南側まで海が入り込んでいたことから、海岸平城に分類される。縄張りは変形輪郭式。本丸と二之丸は、本丸の周囲を二之丸が取り囲む「輪郭式」に配され、その北側に三之丸が二之丸北辺にとりつくように「梯郭式」に配置されている。銃砲撃戦を意識した設計となっており、十字砲火が可能なように稜堡に似た「横矢掛かり」や「横矢枡形」が数多く用いられている。縄張りは赤穂浅野家初代長直の時代、浅野家に仕えた甲州流兵学者近藤正純によってなされた。

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またこのとき赤穂藩に仕えていた軍学者の山鹿素行が、承応2年(1653年)に築城中であった赤穂城の縄張りについて助言した。これにより二の丸門周辺の手直しがなされたとされ、発掘調査ではその痕跡の可能性がある遺構が発見されている。

最終的に寛文元年(1661年)に赤穂城は完成し、着手から13年かかって完成している。

完成時には10の隅櫓、12の諸門があり、曲輪の延長は2,847mに及んだ。本丸には築城時に設置された天守台が残存するが、江戸時代を通じて天守そのものは建築されなかった。

明治時代前期に城内の建物は破却、土地の大部分が民間へ払い下げられたため、一部の石垣のみを残し、田畑化・宅地化した。本丸には小学校などが設置されるなど、公共施設の用地として利用された。1928年(昭和3年)から1981年(昭和56年)の間には、兵庫県立赤穂高校(旧制赤穂中学)の敷地となり、西洋風の鉄筋コンクリート校舎が存在していた。

1955年(昭和30年)には古写真を参考に大手隅櫓、大手門(高麗門)が建築されている。1971年(昭和46年)には赤穂城跡が国史跡に指定され、門・塀・庭園が徐々に再建され、現在も二之丸庭園の復元整備が進められている。現在、本丸には、本丸門や本丸御殿の間取り、発掘調査でみつかった庭園などが復元整備され、その規模や当時の暮らしぶりの一端を窺うことができる。

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赤穂城は5万石の石高の割には規模の大きい城である。5層天守の造営も計画されていたが幕府への遠慮か財政難のためか造営されず、天守台のみが今日に残っている。

赤穂城は海岸に近く標高が低いため、堀の水や井戸水には海水が混じり飲用に適さなかった。そのため、千種川の上流に井関と水路を建設して上水道を敷設し、城内のみならず城下各戸にも給水していた。これは「旧赤穂上水道」と呼ばれ、日本三大上水道の一つに数えられている。

赤穂城は浅野氏の『元禄赤穂事件』で有名だが、池田氏でも輝興が狂乱し正室などを殺す『正保赤穂事件』、脇坂氏(赤穂城預かり)でも赤穂城にて在番していた重臣(脇坂左次兵衛)が突如、乱心して同僚を斬り殺す『脇坂赤穂事件』、森氏でも攘夷派の志士たちが藩政を私物化したとして家老の森主税(可彝)を暗殺した『文久赤穂事件』が起きている。

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復元・整備施設

三の丸

  • 太鼓橋 -正門である三之丸の「大手門」へかかる橋。 1935年(昭和10年)に建築。木造での復元ではない。
  • 大手門(高麗門)-大手門の一部。 昭和30年に建築。江戸時代にはこの奥に櫓門が存在したが、現在は失われている。
  • 枡形虎口(ますがたこぐち)・番所 – 大手門を入ると右に折れ曲がる入口。番所跡に模擬番屋(案内所)。番所には門番として足軽3名、下番2名が詰め、大手門の警護にあたっていた。
  • 大手(高麗門)隅櫓 – 三之丸の大手門近くにあった隅櫓を模して昭和30年に建築されたもの。二層の隅櫓を設置。

二の丸

  • 二ノ丸土塁
  • 厩口門(高麗門) – 昭和56年まで県立赤穂高等学校の通用口であった。
  • 二の丸庭園
  • 水手門 – 船着場跡と四脚門の礎石がある。
  • 西仕切門

本丸

  • 本丸高麗門(こうらいもん) – 赤穂城本丸門の一部。城壁上の土塀に丸、三角、四角の穴(狭間)が開く。正面に「赤穂城址」の石碑。
  • 本丸櫓門(やぐらもん) – 同上。石垣の上に一層櫓。内部は特定の日に一般公開されている。
  • 天守台 – 天守が築かれた事はないが、「光の天守閣」(前項参照)でプロジェクションマッピングが投影される。
  • 本丸御殿跡 – 本丸庭園は国の名勝に指定。 コンクリート盤上に部屋の間仕切りを示し、坪庭跡には中高木を植栽。
  • 刎橋門跡 – 一部が破壊された石垣が残る。内堀の直前に柵が付けられている。
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別名加里屋城
城郭構造変形輪郭式海岸平城
天守構造建造されず
築城主浅野長直
築城年1648年(慶安元年) – 1661年(寛文元年)
主な改修者浅野長直
主な城主浅野家、永井家、森家
廃城年1873年(明治6年)
遺構石垣、堀、本丸庭園、二之丸庭園、門跡
指定文化財国史跡、国名勝(旧赤穂城庭園 本丸庭園・二之丸庭園)
再建造物櫓・門、二之丸庭園(復元中)
位置北緯34度44分44.41秒 東経134度23分20.34秒
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