弘前城(ひろさきじょう)は、弘前(現・青森県弘前市下白銀町)にあった日本の城

弘前城(ひろさきじょう)は、陸奥国鼻和郡(のち統合と外浜(青森)、西浜(十三湊)を編入で津軽郡)弘前(現・青森県弘前市下白銀町)にあった日本の城である。別名・鷹岡城高岡城江戸時代に建造された天守などが現存し国の重要文化財に指定されている。また城跡は国の史跡に指定されている。江戸時代には津軽氏が居城し弘前藩藩庁が置かれた。

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概要

江戸時代には弘前藩津軽氏4万7千石の居城として、津軽地方の政治経済の中心地となった。城は津軽平野に位置し、城郭は本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の6郭から構成された梯郭式平山城である。創建当初の規模は東西612メートル、南北947メートル、総面積38万5200平方メートルに及んだ。現在は、石垣土塁等城郭の全容がほぼ廃城時の原形をとどめ、8棟の建築と現存12天守に数えられる内の天守1棟が現存する。現存建築はいずれも、国の重要文化財に指定されている。小説家司馬遼太郎は紀行文集『街道をゆく – 北のまほろば』で、弘前城を「日本七名城の一つ」と紹介している。

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遺構

天守(初代)

最初の天守は、鷹岡藩2代藩主の津軽信枚により1609年(慶長14年)頃に本丸南西隅に建てられた5重の建物である。内部6階と推定される建築は東北地方では若松城天守に次ぐものであった。しかし1627年(寛永4年)9月の落雷で出火し、天守内部に収納されていた火薬に引火して(4重目に吊るされていた釣鐘が落下して下層に収納してあった火薬に引火したとも)大爆発を起こして本丸御殿や諸櫓とともに焼失した。天守は再建されることなく、今でも天守台を支えていた石垣は本丸南西隅に聳えている。

なおこの天守火災は当時、藩主・信枚の伯母(初代津軽為信の正室・阿保良の姉)の祟りだと信じられていた。伯母は為信のために、横内城城主で南部氏一族の夫・堤弾正左衛門から離縁され失意の内に病没しており、城はそれから30年ほども経ってから完成しているのだが時折、伯母の怨霊が城内に現れていたという。

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天守(御三階櫓)

本丸唯一の現存建築である天守は層塔型3重3階の建物である。現在は独立式であるが、往時は北側に多聞櫓を付属させた複合式であった。この多聞櫓は明治29年(1896年)ごろまでに破却されている。天守の高さは約14.4メートルあり、現存する三重天守の中で最も低い。

1627年(寛永4年)大爆発して焼失した5重天守の代用として、またロシア船の津軽海峡往来などの事態により幕府の許しを得て、本丸南東隅の辰巳櫓の改修を名目として建てられた。1810年(文化7年)着工、1811年(文化8年)に竣工した。往時は幕府への配慮から天守とは見なさず、櫓(御三階櫓)として扱われていたが、「事実上の天守」としての役割を持ち現在は書籍などの多くで天守として扱われている。昭和24年(1949年)に松前城天守が焼失したため、現在最も北に位置する現存天守でもある。

外壁は白漆喰塗籠で、窓と狭間の上下に長押形を施し、また屋根瓦には寒冷地のため銅瓦を葺いている。外側に面する東面と南面は1層目と2層目に大きな切妻出窓を設け、窓には狭間窓を用いるなど小さな建物を華美で大きく見せる視覚効果が施される。一方で、内側である西面と北面には破風を全く付けずに連子窓を単調に並べただけである。いわゆる「二方正面」である。内部も通常の天守建築では最高級の木材や技術が用いられるが、弘前城の場合は普通の櫓と同等の木材が用いられ、構造的にも簡素であり、床も全て敷居を設けずを敷くことが想定されていないなど、当初から倉庫として利用されることを見込んだ構造となっている。。

平成の天守石垣の修理において明治・大正時代の壺の発見や天守台石垣の四隅からイカの形をした石垣が発掘された。イカの形をした石は市が「いかすみ石」と名付けた。

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櫓・門ほか

二の丸の現存櫓は3層の辰巳櫓・丑寅櫓・未申櫓の3棟である。門は、三の丸追手門・三の丸東門・二の丸南門・二の丸東門・北の郭北門(亀甲門)の5棟がそれぞれ築城時の姿で現存し、以上は国の重要文化財に指定されている。このほかに、二の丸東門与力番所が移築復元されている。

前述の通り現在は5棟の城門が残されているが、築城当初は10棟の城門があった。この内のいくつかの門は、工期の短縮などのため、周辺の城郭より移築されている。具体例としては北の郭北門(通称亀甲門)と三の丸北内門(通称賀田門)がそれにあたり、それぞれ大光寺城および大浦城から移築されている。

ちなみに、弘前城の門を参考に時代劇のロケ地に利用されるワープステーション江戸茨城県つくばみらい市)に「江戸城大手門」が造られている。

外郭の南西に位置する禅林街は、長勝寺構(ちょうしょうじがまえ)として出城の役割を担っており、堀、土塁枡形などが残る。

三の丸追手門

二の丸南門(南内門)

北の郭北門(亀甲門)

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文化財

重要文化財

  • 弘前城
    • 天守 附棟札2枚
    • 二の丸辰巳櫓 附棟札1枚
    • 二の丸未申櫓 附棟札1枚
    • 二の丸丑寅櫓
    • 二の丸南門
    • 二の丸東門
    • 三の丸追手門
    • 北の郭北門(亀甲門)
  • 弘前城三の丸東門

史跡

  • 津軽氏城跡
    • 弘前城跡

重要伝統的建造物群保存地区

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交通

別名鷹岡城、高岡城
城郭構造梯郭式平山城
天守構造不詳5層(非現存・1610年築)
御三階櫓(複合式[1]層塔型3層3階・1810年改)
独立式層塔型3層3階(現存)
築城主津軽為信信枚
築城年1611年
主な改修者津軽寧親
主な城主津軽氏
廃城年1871年
遺構現存天守
石垣土塁
指定文化財重要文化財
(天守・辰巳櫓・丑寅櫓・未申櫓・三の丸追手門・三の丸東門・二の丸南門・二の丸東門・北の郭亀甲門)
国の史跡
再建造物二の丸東門与力番所
位置北緯40度36分28.93秒 東経140度27分49.7秒
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