中津城(なかつじょう)/中津川城(なかつがわ(の)じょう)は、豊前国中津(現在の大分県中津市二ノ丁)にあった日本の城

中津城(なかつじょう)/中津川城(なかつがわ(の)じょう)は、豊前国中津(現在の大分県中津市二ノ丁)にあった日本の城黒田孝高(如水)が築城し、細川忠興が完成させた。 大分県指定史跡。江戸時代の大半は、奥平家居城としていた。

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模擬天守と復興櫓

模擬天守と復興櫓

構造

周防灘豊前海)に臨む中津川山国川派川)河口の地に築城された梯郭式の平城である。堀には海水が引き込まれているため、水城(海城)ともされ、今治城高松城と並ぶ日本三大水城の一つに数えられる。本丸を中心として、北に二の丸、南に三ノ丸があり、全体ではほぼ直角三角形をなしていたため扇形に例えて「扇城(せんじょう)」とも呼ばれていた。櫓の棟数は22基、門は8棟。総構には、6箇所の虎口が開けられた。

中津城は、冬至の日には、朝日は宇佐神宮の方角から上り、夕日は英彦山の方角に落ちる場所に築城されている。また、吉富町にある八幡古表神社薦神社とを結ぶ直線上に位置する。鬼門である北東には、闇無浜神社(くらなしはま)がある。

天守

江戸時代の絵図には天守は描かれておらず、「中津城下図」には、中津川沿岸の本丸鉄門脇に三重櫓が描かれているのみである。しかし、黒田孝高(如水)の手紙には「天守に銭を積んで蓄えた」とある。その後、元和5年1月5日細川忠興書状に、小笠原忠真(忠興の三男忠利の義兄弟)へ中津城の天守を譲るとあり、当時忠真が築城中だった明石城へ送られたが、実際の明石城には天守はなく、他の建物に転用されたと考えられる。また、文禄2年(1593年)に亡くなった小河信章の跡を継いだ小河之直へ長政が発した3月3日付書状に、天守の欄干が腐った旨の記述があるが、これが中津城かその後の居城福岡城を指すかは不明である。

復元された水堀と改修された本丸下段南面石垣

堀・石垣

中津城に残る黒田孝高(如水)が普請した石垣は、天正16年(1588年)に普請された現存する近世城郭の石垣としては九州最古のものである。本丸上段北面石垣(模擬天守北面下)は、黒田家の石垣に細川家が石垣を継いだ境が見られる。また、本丸南の堀と石垣は、中津市によって修復、復元されている。ここにも黒田・細川時代の石垣改修の跡を見ることができる。

本丸上段北面石垣にある継ぎ目。向かって左が細川氏、右が黒田氏普請の石垣。

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城下町

扇状の旧城下町には、今でも築城した黒田官兵衛にちなんだ「姫路町」や「京町」などの町名が残る。

模擬天守

昭和39年(1964年)、本丸上段の北東隅櫓跡(薬研堀端)に観光開発を目的に建てられた。

奥平昌信が中心となって構想し、小倉城名古屋城などの天守外観の復興に携わった、東京工業大学教授の藤岡通夫が設計を手がけた。 鉄筋コンクリート構造で、外観は萩城天守をモデルとして外壁仕上げは下見板張りを模し、外観5重内部5階(5重5階)構造で高さは23メートルある。

模擬天守は中津城(奥平家歴史資料館)として一般公開されており、奥平家歴代の当主の甲冑、奥平忠昌徳川家康から拝領した白鳥鞘の鑓(しらとりざやのやり)、長篠の戦いを描いた長篠合戦図大掛軸、武田信玄から拝領した陣羽織、徳川家康からの軍法事書など古文書類が展示されている。

同時に、模擬天守南に望楼型の二重櫓も建てられているが、かつてこの場所には南東隅櫓があり、層塔型で多門櫓を続櫓として付属させている姿が写る古写真がある。

利用情報

模擬天守(奥平家歴史資料館)入館料金

  • 大人は高校生以上が400円
  • 子供は中学生以下まで200円
  • 20名以上の団体は1人当たり、個人入館料から大人は100円、子供は50円割引く

(※中津市民の入館料は住所を証明できるものを窓口で提示することで50円割引きとなる)入館料無料の者

  • 未就学の乳幼児
  • 77歳以上の者
  • 身体障害者手帳・精神障害者保健福祉手帳・療育手帳を所持する者、およびその介護者(窓口に手帳を提示する必要がある)
  • 旧奥平中津藩士の子孫(窓口で証明できるものを提示する必要がある)[9]

開門時間

  • 午前9時から午後5時

休館日

  • 年中無休

所在地

  • 〒871-0050 大分県中津市二ノ丁本丸
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