鳥取城(とっとりじょう)は、鳥取県鳥取市(旧・因幡国邑美郡)に築かれた戦国時代から江戸時代の日本の城

鳥取城(とっとりじょう)は、鳥取県鳥取市(旧・因幡国邑美郡)に築かれた戦国時代から江戸時代日本の城である。国の史跡に指定され、別名は久松山城という。戦国時代から江戸末期にかけての城郭形態の変化を窺うことができることから「城郭の博物館」の異名を持つ。織田信長中国攻めでは、家臣の羽柴秀吉兵糧攻めを用いて攻略した。開城後、入城した宮部継潤によって山上ノ丸の改修が行われ、江戸時代には鳥取藩池田氏の治下に入り、麓の二の丸以下の曲輪が拡張された。現在は天守台、石垣、堀、井戸などが残っている。

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構造

標高263メートルの久松山頂の山上の丸を中心とした山城部、山麓の天球丸、二の丸、三の丸、右膳の丸などからなる平山城部からなる梯郭式の城郭とすることができる。さらに西坂・中坂・東坂などの尾根筋には戦国期の遺構が数多く残されており、戦国時代から近世、さらに幕末までの築城技術が一つの城地に残る城跡である。

藩政期の鳥取城の建造物については、数多くの古絵図が残されているほか江戸後期の鳥取藩士岡嶋正義の『鳥府志』に詳しく記述されている。

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山上の丸

天守、車井戸、御旗櫓、着見櫓、多聞櫓などの建物があった。東方に二の丸・三の丸と見なすことのできる2段の郭がある。本丸西方の一段下には出丸があり、下段の御櫓のほかに馬場も設けられていた。

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二の丸

二の丸の櫓群。

江戸時代初期には藩主の御殿が置かれ、鳥取城の中心であった。周囲に御三階櫓、走櫓、菱櫓などの建物があった。大手の入り口は鉄御門(くろがねごもん)。1718年(享保3年)三の丸に新御殿が建設されると二の丸が使われることは少なくなった。石黒火事で全焼したあと、御三階櫓と走櫓が再建されたのみで長らく放置されていたが、1844年(弘化元年)再び二の丸御殿が建設された。1849年(嘉永2年)には御三階櫓の西方が拡張され、角櫓や登り石垣が建造された。幕末には菱櫓も再建された。

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右膳の丸

御三階櫓の西方、二の丸の一段下にある郭。城代高木右膳の屋敷があったことからこの名がある。太平洋戦争後はここに進駐軍の官舎が建てられており、礎石等の遺構は破壊されているが、郭の一隅に五輪塔群、井戸、城内安全之碑が遺っている。

三の丸

江戸時代初め、池田長吉の頃は侍屋敷がおかれていたらしい。池田光仲の時代になり若君の居館や老公の隠居所となったが、1718年(享保3年)に拡張工事が行われ、藩主の居館が置かれた。それに伴い二の丸と呼称が改められたが、藩主の居館が再び二の丸へ移った幕末には三の丸の呼称に戻っている。最後の藩主・池田慶徳の代、文久年間に江戸小石川にあった水戸徳川家の松の御殿を移築したため、松の御殿と呼ばれることもあった。三の丸は現在は鳥取県立鳥取西高校の敷地となっている。

丸の内

現在、鳥取西高校のグラウンドや久松公園になっている区画で、池田光政時代までは藩士の屋敷が建ち並んでいた。その後、藩士の屋敷は内堀の外へと移され、かわりに米蔵や武器蔵が建てられ、馬場も置かれた。米蔵があった関係上、一部の有力町人も出入りが許されていた。

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別名久松城、久松山城
城郭構造梯郭式平山城および山城
天守構造独立式望楼型3重(1573年頃、非現存)
複合式層塔型2層2階地下1階(1605年改、非現存)
築城主但馬山名氏
築城年天文年間(1532年 – 1555年
主な改修者吉川経家宮部継潤池田長吉
主な城主山名氏、吉川氏宮部氏池田氏
廃城年1871年(明治4年)
遺構石垣、堀、井戸
指定文化財国の史跡
再建造物城門、擬宝珠橋
位置北緯35度30分36秒 東経134度14分28秒

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