瑞巌寺(ずいがんじ)は、宮城県宮城郡松島町にある臨済宗妙心寺派の仏教寺院である

瑞巌寺 本堂 (宮城県宮城郡松島町)
概要
日本三景の一つ、松島にあり、山号を含めた詳名は松島青龍山瑞巌円福禅寺(しょうとうせいりゅうざん ずいがんえんぷくぜんじ)。平安時代の創建で、宗派と寺号は天台宗延福寺、臨済宗建長寺派円福寺、現在の臨済宗妙心寺派瑞巌寺と変遷した。古くは松島寺とも通称された。
江戸時代前期の1689年に俳人松尾芭蕉が参詣したことにちなみ、毎年11月第2日曜日には芭蕉祭が行われる。また、大晦日には火防鎮護祈祷である「火鈴巡行」と一般も撞ける除夜の鐘が有名である。
境内には、「臥龍梅」と呼ばれる紅白二本の梅の木があり、伊達政宗の手植えと伝えられている。また、参道にはシンボルとも言える杉並木があったが、平成23年(2011年)3月11日の東日本大震災の津波に見舞われ、その後の塩害によって立ち枯れが目立ったことから、約300本が伐採されることになった。
同じ東北地方にある平泉の中尊寺と毛越寺、山形立石寺と共に「四寺廻廊」という巡礼コースを構成している。
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歴史
天台宗延福寺
平安時代の延福寺については、南北朝時代か室町時代初期の成立と思われる『天台記』が記すだけで、確かなことはわからない。それによれば、延福寺は天長5年(828年) 淳和天皇の勅願寺として慈覚大師円仁が開山した天台宗の寺であったという。円仁が開いたという話は他に正嘉元年(1257年)に書かれた『私聚百因縁集』に記されている。延福寺に限らず、平安時代まで遡ることが確実視される東北地方の古寺には、円仁の開山と伝えるところが多いが、事実ではないと考えられている。円仁は関東出身ではあるが活動の舞台は中央にあった。慈覚開山とされる寺は、慈覚を名目上の開山に立て実際に開いた僧が二世以降に下がった勧請開山とも言われる。
『天台記』はこの寺が奥州藤原氏の保護を受け、文治2年(1186年)に藤原秀衡が死ぬと、嫡子の頼平が栗原郡を寄進したと記す。が、一郡の寄進は信じがたいし、嫡子は頼平ではなく泰衡、秀衡の没年は文治3年である。
また、文治5年(1189年)に源頼朝が源義経を追討した時、延福寺の僧は頼朝のために義経を呪詛したという。松島から少し離れた(あるいは松島まで含めた)陸奥国府域は、奥州合戦勃発前に奥州藤原氏に離反したと推測されており、この伝承は荒唐無稽と言えないものがある。
寺にはまた、見仏上人にあてた北条政子(頼朝夫人)の手紙と、政子が寄贈したという仏舎利が、五輪塔の形をした水晶製の容器に入れられて伝えられている。見仏は円福寺には属さず松島にいた行者である。政子の手紙は自筆ではなく、偽作でなければ後世の写しと見る説が有力である。書簡・寄贈を史実と推定する学者もいるが、伝承を偽とする説も強い。たとえば、容器の形から政子没後の制作と推定し、鎌倉時代に仏舎利信仰を勧めた真言律宗の叡尊の影響を見る説がある。
平安時代の延福寺は現在の瑞巌寺とは別の場所にあり、その位置は不明である。1992年(平成4年)の瑞巌寺境内発掘調査で、9世紀の製塩炉が見つかったことから、その場所が当時は寺院ではありえないことがわかった。延福寺の規模は意外に小さかったのではないか、とする説もある。

臥龍梅
参道。江戸時代には道の左右に13の塔頭が並んでいた

参道(2018年10月撮影)。2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震によって引き起こされた津波は、当寺の境内にも浸入し、参道の杉木立の多くが枯死した。
文化財
国宝
- 本堂(元方丈)御成玄関附属
- 庫裏及び廊下 2棟
重要文化財
- 御成門 附:太鼓塀2棟
- 中門 附:太鼓塀2棟
- 五大堂 附:厨子
- 本堂障壁画 161面、附:障壁画22面、杉戸絵28面(明細は後出)[20]
- 木造五大明王像 5躯 五大堂安置
- 雲版
- 奥州御島頼賢碑 徳治二年(1307年)一山一寧撰並びに書

庫裏(国宝)

中門(重要文化財)

御成門(重要文化財)

五大堂(重要文化財)
本尊聖観音像
拝観
宝物館(青龍殿)
障壁画など重要文化財の収蔵庫および展示室。拝観時間4-9月 8:00-17:00、3・10月 8:00-16:30、2・11月 8:00-16:00、1・12月 8:00-15:30拝観料大人 700円小人 400円

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