錦帯橋は、山口県岩国市の錦川に架橋された、5連の木造アーチ橋である。 | 日本の歴史と自然の美を楽しむ

錦帯橋(きんたいきょう)は、山口県岩国市の錦川に架橋された、5連の木造アーチ橋である。

錦帯橋(きんたいきょう)は、山口県岩国市錦川架橋された、5連の木造アーチ橋である。

錦帯橋(2010年7月)

錦帯橋

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概要

日本三名橋日本三大奇橋に数えられており、名勝に指定されている。藩政期史料には「大橋」と表記されることが多く、また「凌雲橋(りょううんばし)」「五竜橋(ごりゅうばし)」「帯雲橋(たいうんばし)」「算盤橋(そろばんばし)」などとも呼ばれていた。「錦帯橋」という美名は、完成後に定着した説が有力とされている。文書による初出は宇都宮遯庵の記述した文書内である。

5連のアーチからなるこの橋は、全長193.3メートル、幅員5.0メートルで、主要構造部は継手や仕口といった組木の技術によって、は1本も使わずに造られている。 石積の橋脚に5連の太鼓橋がアーチ状に組まれた構造で、世界的に見ても珍しい木造アーチ橋として知られる。 また美しいアーチ形状は、木だけでなく、鉄(鋼)の有効活用がなされて初めて実現したものである。杭州西湖にある堤に架かる連なった橋からヒントを得て、1673年に創建された。西湖の錦帯橋とは2004年に姉妹橋となっている。現在、そのほとりには、錦帯橋友好の石碑が建立されている。

の名所として、吉香公園と共に日本さくら名所100選に選定されている。

錦帯橋の全景

歴史

創建時

錦帯橋は1673年延宝元年)に、岩国藩吉川広嘉によって建造されたものである。

初代岩国領主吉川広家岩国城を築城して以来、岩国城と錦川を挟んだ対岸にある城下町をつなぐ橋は数回架けられているが、錦川の洪水により流失していた。

3代領主の広嘉は、洪水に耐えられる橋を造ることに着手する。橋脚をなくせば流失を避けられるとのアイデアのもと、大工児玉九郎右衛門甲州に派遣し、橋脚がない跳ね橋(刎橋)である猿橋の調査を命じた。しかし、川幅30メートルの所に架けられている猿橋に対し、錦川の川幅は200メートルもあるため、同様の刎橋(はねばし)とするのは困難であった。

広嘉がある日、かき餅を焼いていたところ、弓なりに反ったかき餅を見て橋の形のヒントを得たという[5]。また、の帰化僧である独立性易から、杭州の西湖には島づたいに架けられた6連のアーチ橋があることを知り、これをもとに、連続したアーチ橋という基本構想に至ったともいわれている[6]。アーチ間の橋台を石垣で強固にすることで、洪水に耐えられるというのである。

延宝元年(1673年)6月8日に基礎の鍬入れが始められ、児玉九郎右衛門の設計により、石で積み上げられた橋脚を川の堤防に2個、中間に4個の計6個築き、その上から片持ちの梁をせり出した木造の5連橋を架けた。広嘉は近くに住居を構えて自ら架橋工事の監督を行い、扇子を開いてアーチ橋の湾曲の形を決定したという。同年10月、錦帯橋は完成し、地元で家内睦まじいことで評判の農家清兵衛の一家12人による渡り初めが行われた。しかし、翌年の延宝2年(1674年)、洪水によって石の橋脚が壊れ、木橋も落ちてしまったので、同年、家来に石垣の研究をさせて橋台の敷石を強化し再建した。この改良が功を奏し、その後は昭和期まで250年以上流失することなく定期的に架け替え工事が行われ、その姿を保った。

なお、橋は藩が管理し、藩内では掛け替え・補修の費用のために武士・農民など身分階級を問わず「橋出米」という税が徴収されていた。ただし当時、橋を渡れるのは武士や一部の商人だけで、一般の人が渡れるようになるのは明治に入ってからであった。

葛飾北斎の錦帯橋

岩国城と錦帯橋

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近代以降

明治時代になり橋を管理していた岩国藩が消滅すると、1895年に地元有志による「錦帯橋保存会」が設立され、掛け替え資金の募集を行うようになる。

1922年3月、史蹟名勝天然紀念物保存法により名勝の指定を受ける。

1950年昭和25年)9月14日、折からのキジア台風により第四橋の橋脚から崩壊し、錦帯橋はほぼ完全に流失してしまう。276年間流されなかった錦帯橋が流失した原因としては、直前までの第二次世界大戦下で橋の補修が疎かになっていたことや、戦時中の燃料不足の中でマツ精油松根油)を採取するためなどで上流域の森林伐採が進み、保水力が落ちていたこと、進駐してきたアメリカ軍が前年に岩国基地滑走路を拡張した際に錦帯橋付近から大量のバラス(砂利)を採取したことで河床の落差が急に大きくなっていたことなどの要因が指摘されてもいる。

1951年から復旧工事が始まり、1953年(昭和28年)に再建が完了。コンクリート製での再建案もあったが、市民の求めで木製で再建された。

2001年(平成13年)より2004年(平成16年)に26億円をかけて、約50年ぶりに橋体部分の架け替え工事が行われた。工事は各年の晩秋から早春の、錦川の水量が減る時期に施工された。

2005年(平成17年)9月6日から翌7日にかけて九州北部・山陰沖を通過した台風14号により、第一橋の橋脚2基が流失した。後に約4000万円かけて復旧工事が行われ今に至る。

修理工事中の錦帯橋(2004年2月)

特徴

構造

川幅約200メートルの河川内に4つの橋脚を持つ5連の木造橋で、中央3連がアーチ橋、両端が桁橋構造を持つ反橋となっている。長さはアーチ橋が35.1メートル、桁橋は34.8メートル。

アーチ橋の構造は、左右の橋脚を起点に橋桁の1番桁から11番桁まで順次勾配を緩めながら先に突き出るように重ねていき、9番桁鼻間に大棟木(おおむなぎ)、10番桁鼻間に小棟木を入れる。

こうした構造形式は世界的にも珍しく、ユネスコ世界遺産に登録されている橋梁の中にも、類似の構造をもった木造橋は見られない。

2005年の台風被害の際は、桁橋の橋脚の一部が流失したにもかかわらず橋体には被害がなかった。橋脚に衝撃を受けた場合、接続部のホゾ構造が橋本体に損傷を与えずに抜ける構造になっていたためである。

なお、近年、錦帯橋のアーチ形状は、カテナリー曲線(懸垂線)である可能性を複数の研究者が指摘している。

材質

現在の橋体に使われている木材はアカマツヒノキケヤキクリカシヒバで、木材の特性により使い分けられている。平成の架け替えの際は全国から約7年かけて木材が集められ、100%国産材で造られた。なお、桁橋の橋杭には本来のマツに代え、腐りにくい青森県産のヒバが初めて使われた。

一方、橋脚の石垣や河床の石畳は創建後に造り替えられた記録はなく、昭和の再建の際も崩壊した石材を集めて造り直された。このため、錦帯橋で唯一、創建時の部材が残っている箇所と言われている。ただし石垣の内部には、昭和の再建の際にコンクリートが打ち込まれている。

錦帯橋の裏側

入橋料

1966年以降は、観光客から「入橋料」を徴収し、掛け替え・管理の財源に充てられるようになった。「通行料」ではなく、往復同額である。

料金所の営業時間は8時から17時まで(夏期は19時まで)で、それ以外の時間帯では、夜間料金箱に料金を入れて渡るようになっている。

渡橋自体は、24時間可能である(夜間ライトアップは22時まで)。

車両等の進入、損壊

橋は、車両の進入が禁止されている。橋を破損させた場合、文化財保護法に触れるほか、損壊した箇所の修復に要する費用を請求されることがある。 1998年(平成10年)5月6日、橋を軽トラックで渡った3人の男が逮捕された。橋についた傷を修復するのに約220万円の費用がかかった。 2020年令和2年)7月17日、橋を400ccのオートバイで渡った男が後日警察に出頭、逮捕された。 2021年(令和3年)1月25日には、橋でスケートボードをしていた数人が橋板4枚を損傷させたとして、警察が文化財保護法違反の容疑で事情聴取を行った。

アクセス

  • 岩国駅から、いわくにバス「錦帯橋」(錦帯橋バスセンター)方面行きのバス(系統番号:12、13、21、31、32、42など)、防長交通バス「徳山駅」「高森」行きにて、乗車時間約15分-20分。下車場所から見える(下車後、徒歩100m程度)。
  • 西岩国駅からは、いわくにバス(系統番号:13)にて「錦帯橋バスセンター」に連絡。
  • 川西駅からも移動可能(岩徳線・錦川清流線経由)。列車下車後、徒歩約20分。川西駅から連絡する、いわくにバス(系統番号:42、65、66)もあり。
  • 新岩国駅から、いわくにバス(岩国駅行き)で約12分。
日本
所在地山口県岩国市
交差物件錦川
建設1673年(初代落成。その後、流失や復元工事有り)
座標北緯34度10分03.86秒 東経132度10分41.43秒
構造諸元
形式5径間木造アーチ橋
全長193.3 m
5.0 m

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