端島(はしま)は、長崎県長崎市(旧西彼杵郡高島町)にある島 | 日本の歴史と自然の美を楽しむ

端島(はしま)は、長崎県長崎市(旧西彼杵郡高島町)にある島

端島(はしま)は、長崎県長崎市(旧西彼杵郡高島町)にあるである。明治時代から昭和時代にかけて海底炭鉱によって栄え、1960年代には東京以上の人口密度を有していた。しかし、1974年昭和49年)の閉山にともなって島民が島を離れてからは、無人島である。軍艦島(ぐんかんじま)の通称で知られている。「羽島」とも書いていた。日本初の鉄筋コンクリート造の高層集合住宅がある。

2015年、国際記念物遺跡会議(イコモス)により、軍艦島を構成遺産に含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が世界文化遺産に登録された。

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軍艦島(端島)の全景。島の南西の海上から撮影

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Hashima Nagasaki Japan

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地理

端島(軍艦島)の位置

長崎港から南西の海上約17.5キロメートルの位置にある。旧高島町の中心であり同じく炭鉱で栄えていた高島(の南端)からは南西に約2.5キロメートルの距離にあり、長崎半島(野母半島)からは約4.5キロメートル離れている。端島と高島の間には中ノ島という小さな無人島があり、ここにも炭鉱が建設されたが、わずか数年で閉山となり、島は端島の住民が公園や火葬場・墓地として使用していた。そのほか端島の南西には「三ツ瀬」という岩礁があり、端島炭鉱から坑道を延ばしてその区域の海底炭鉱でも採炭を行っていた。

端島は本来は、南北約320メートル、東西約120メートルの小さな瀬であった。その小さな瀬と周囲の岩礁・砂州を、1897年(明治30年)から1931年(昭和6年)にわたる6回の埋め立て工事によって、約3倍の面積に拡張した。その大きさは南北に約480メートル、東西に約160メートルで、南北に細長く、海岸線は直線的で、島全体が護岸堤防で覆われている。面積は約6.3ヘクタール、海岸線の全長は約1,200メートル。島の中央部には埋め立て前の岩山が南北に走っており、その西側と北側および山頂には住宅などの生活に関する施設が、東側と南側には炭鉱関連の施設がある。

年間平均気温は15 – 16。平均降水量は2,000ミリメートル、冬は比較的雨量が多い。夏は南東風・南風、冬は北西風・北風が多い(いずれも旧高島町についてのもの)。

端島を舞台とした1949年(昭和24年)の映画『緑なき島』のタイトルにも現れているが、この島には植物がとても少なく、住民は本土から土砂を運んで屋上庭園を作り、家庭でもサボテンをはじめ観葉植物をおくところが多かった。また、主婦には生け花が人気であったという。西山夘三も草木はほとんどないと述べているが、これについては誇張的という指摘がある。閉山後の調査では二十数項目の植物が確認されており、特にオニヤブマオイラクサ科)、ボタンボウフウセリ科)、ハマススキイネ科)の3種が端島の主な植物として挙げられている。

歴史

端島炭坑の歴史区分は大まかに、第一期・原始的採炭期(1810 – 1889年)、第二期・納屋制度期(1890 – 1914年)、第三期・産業報国期(1914 – 1945年)、第四期・復興・近代化期(1945 – 1964年)、第五期・石炭衰退・閉山期(1964 – 1974年)、第六期・廃墟ブームと産業遺産期(1974年 – )に分けられる。

1号棟(端島神社)

1936年に建設された。小高い丘の上に1階建ての端島神社が立つ。例祭(山神祭)は毎年の4月3日ごろの日曜で、神輿の他に主婦会によるバザーなどもある。神輿が地獄段を駆け降りるところが見物。

神社の下には温室がある。

端島神社

30号棟(グラバーハウス)

30号棟は、1916年(大正5年)に建設された日本初の鉄筋コンクリート造アパートである(日本初の鉄筋コンクリート造「高層」アパートとも)。グラバー邸トーマス・ブレーク・グラバーと関わりがあるという説があり、通称グラバーハウスと呼ばれる。当初は4階建てであったが、完成後まもなく7階建てに増築されている。島の南西部、岩山の南端の山麓に位置する。中央に吹き抜けをもち、上から見るとほぼ正方形に近い「ロの字形」をした建物である。吹き抜けの周りを囲むようにロの字形の廊下があり、階段も吹き抜けに面している。その周囲に巴形に住居が配置されている。鉱員社宅として建てられたが、閉山時には下請飯場として用いられていた。7階建てだが部分的に地階もあり、閉山時は売店が入っていた。戸数は140戸、総床面積は3808.0平方メートル。基本的な階の構造は、1K(6畳)が19戸と1K(4畳)が1戸と共同トイレ。25号棟・26号棟・緑道(山通り)とは通路で繋がっている。建物の南東側には、船着場に直通のトンネルの出口がある。当時はまだ技術的に未熟であり、また材料や環境の悪さゆえ、最初に造られた下層階の劣化が速かったため、1953年(昭和28年)、上層階をそのままに下層階の鉄筋を取り替え、コンクリートを打ち直して改築している。

30号棟

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世界遺産

端島では、明治期に作られた岸壁と海底坑道のみが、世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の一部として、世界遺産のコアゾーンに指定されている。これらの世界遺産(コアゾーン)は保護の義務が課されるが、これ以外の他の近代に建築された建築物などは世界遺産を保護する「バッファーゾーン」に指定されているため、保護の義務が課されず、多くは崩壊するままとなっている。

なお、海底坑道は非公開であり、岸壁はコンクリートの補強で覆われているため、軍艦島では、岸壁の表面のコンクリートが崩落した部分からのみ、世界遺産である石組を見ることができる。

肥前端島灯台

中央は手前から48号棟、14号棟、3号棟、左は51号棟、右は手前から39号棟、13号棟

7階建ての端島小中学校(70号棟)

条例

長崎市は「長崎市端島見学施設条例」で、端島に「長崎市端島見学施設」を設け、桟橋、見学広場、見学通路を設けると定める。また、見学施設を利用することができる者を、原則として許可事業者およびその係員ならびに許可事業者の船舶により運送された者に限定している。

また、長崎市は「端島への立ち入りの制限に関する条例」により安全確保のため、端島の区域のうち、長崎市端島見学施設条例で定められた見学施設の区域以外の区域への立ち入りを市長が特別の理由があると認める者を除いて認めていない。

交通アクセス

端島には飛行場がなく、また別の陸地とをつなぐ橋梁もないため、端島へ至る交通機関は船舶に限られる。一般開放されている範囲では、観光ツアー船での上陸が可能。

かつては三菱が社船「夕顔丸」を運航していた(1962年まで)ほか、野母商船長崎港より、伊王島高島を経由して端島に至る航路を運行していた。1970年の時点では1日12往復、長崎までの所要時間は50分であった。距離は長崎港から約20キロメートル。

これらの航路は島の無人化により廃止され現存しないが、廃墟や近代化遺産として端島が注目されるようになると、島の周囲を巡る遊覧船長崎港などから運航されるようになった。上陸は禁止されていたが、それでも上陸を試みる無法者は多く、その場合は海上タクシーなどが利用されていた。

長崎市の「長崎市端島見学施設条例」と「端島への立ち入りの制限に関する条例」により、見学可能エリアは一部に限られるものの、2009年4月22日から観光客が上陸・見学できるようになった。旅行会社や海運会社が上陸ツアーを行っている。軍艦島コンシェルジュ、やまさ海運や、高島海上交通の上陸ツアー(長崎港→端島→長崎港)の場合、料金は(長崎市に払う施設使用料込みで)大人が4,300円。2010年8月には伊王島からの上陸ツアーも開始された。

ただし悪天候の場合、すなわち風速が秒速5メートル超、波高が0.5メートル超、視程が500メートル以下のいずれかに該当する場合には、ドルフィン桟橋が利用できず上陸できない。そのような場合でも、欠航でなければ、施設使用料300円以外の料金の払い戻しはない(やまさ海運では1割返金)。やまさ海運の2009年度の統計によると、(月によってだいぶ異なるが)全体的に欠航便や上陸中止便がそれぞれ数割ほど発生しており、2月と9月はほぼ9割が上陸できているのに対し、7月の「上陸率」は僅か34%にとどまる。

なお、「軍艦島クルーズ」はやまさ海運が商標登録している。

 

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