大内宿は、福島県南会津郡下郷町大字大内にある、江戸時代における会津西街道の宿場 | 日本の歴史と自然の美を楽しむ

大内宿(おおうちじゅく)は、福島県南会津郡下郷町大字大内にある、江戸時代における会津西街道(別称:下野街道)の「半農半宿」の宿場の呼称

大内宿(おおうちじゅく)は、福島県南会津郡下郷町大字大内にある、江戸時代における会津西街道(別称:下野街道)の「半農半宿」の宿場の呼称。明治期の鉄道開通に伴って宿場としての地位を失ったが、茅葺屋根の民家が街道沿いに建ち並ぶ同集落の通称、あるいは観光地名として現在も受け継がれている。1981年昭和56年)に重要伝統的建造物群保存地区として選定され、福島県を代表する観光地の1つとなっている(一部に宿泊施設復活)。

なお、当地の方言である会津弁で大内は「おおち」(歴史的仮名遣い:おほち/あふち)と発音・表記されるため、標準語共通語の「おおうち」との対立がある。

大内宿の街並み

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概要

南会津の山中にあり、全長約450mの往還(google マップ)の両側に、道にを向けた寄棟造民家が建ち並ぶ。江戸時代には会津西街道(別称:下野街道)の「半農半宿」の宿場であったが、現在でもその雰囲気をよく残し、田園の中の旧街道沿いに茅葺き民家の街割りが整然と並ぶ。

大内宿本陣跡には、下郷町町並み展示館がある。民宿や土産物屋、蕎麦屋などが多数立ち並ぶ。特に蕎麦に関しては、高遠そばの名で知られており、の代わりにネギを用いて蕎麦を食べる風習がある。

雪の大内宿

位置情報

地理

奥羽山脈山中の、1000m級の山々に囲まれた標高658m前後にある小規模な盆地の東端にあり、その東側の崖下には小野川阿賀野川水系新潟市日本海に流れ出る)が南流している。

日本海側気候に属し、フェーン現象で暑くなり、豪雪となる。

旧宿場区域と高倉神社周辺の11.3ha重要伝統的建造物群保存地区として選定されており、同地区および福島県道131号下郷会津本郷線との接続道周辺などを除く、他の盆地内の平地は農業振興地域に指定されている。

周辺の主な山

  • 六石山(三等三角点「六石山」。標高1019.09m。)
  • 烏帽子岳(三等三角点「烏帽子山」。標高1095.41m。)
  • 小野岳(二等三角点「小野岳」。標高1383.51m。)
  • 神籠ヶ岳(三等三角点「大内」。標高1376.35m。)

周辺の峠

大内峠と復元された峠の茶屋。茶屋は明治初期まで存在した。

歴史

「半農半宿」期

江戸時代会津西街道(別名:下野街道、南山通り)の宿場として、寛永20年(1643年)頃に開かれ、盆地内を北北東から南南西に貫く街道に沿って整然とした屋敷割の街並みが形作られた。同街道は、会津藩若松城会津若松市追手町。)を出ると、福永宿会津美里町氷玉福永。)、関山宿(会津美里町氷玉関山。)を経て山岳地に入り、氷玉峠)および大内峠を越えて大内宿に入った。大内宿からは中山峠を越えて倉谷宿に入り、日光街道今市宿栃木県日光市今市。)へと至った。若松城から江戸までは61、5泊6日ほどの旅程であるが、若松から5里の距離にある大内宿には本陣脇本陣が設置され、会津藩の参勤交代迴米の集散地として重要なとなった。

延宝8年(1680年)、江戸幕府が参勤交代の脇街道通行を厳しく取り締まるようになったため、正保元年(1644年)から同年まで計21回あった大内宿を通る会津藩の参勤交代は途絶え、白河藩白河城下町経由の白河街道にシフトした。すると、会津西街道は中附駑者(なかづけどじゃ)と呼ばれる流通業者が主に使用する街道となったが、3年後の天和3年9月1日1683年10月20日)の日光地震によって戸板山(現・葛老山。)が一部崩壊し、五十里宿(いかりじゅく)および周辺の街道が堰止湖に水没(五十里ダム参照)。会津藩は会津西街道の機能不全を回復しようとしたが、代替路として新規開通した会津中街道物流はシフトしてしまった。40年後の享保8年(1723年9月9日)、大雨によって堰止湖が決壊すると会津西街道は復旧したが、すでに定着した代替路や新たな脇街道との間で物流の競争を余儀なくされた。そのため大内宿は、純粋な宿場町ではなく「半農半宿」の様相であったと考えられている。

慶応4年/明治元年(1868年)の会津戦争戊辰戦争)で大内村も戦場となったが、宿場は戦禍を逃れた。明治4年7月14日1871年8月29日)の廃藩置県若松県下となったが、1876年(明治9年)8月21日に同県が福島県と合併したため、大内村は福島県下になった。なお、1878年(明治11年)にイザベラ・バードが大内宿の美濃屋に宿泊しているが、一行が会津若松方面に向かう際には会津西街道沿いの大内峠を選択せず、市野峠を越える道を選んでいる。なお当地では、幕末から出稼ぎが始まったようである。

復元された本陣。下郷町町並み展示館として利用されている

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子安観音堂。江戸時代創建か。

近代化

1946年(昭和21年)11月20日、楢原村は町制施行して楢原町となるが、この年に当地にも電気が引かれ、ランプから電灯での生活に変化した。1955年(昭和30年)4月1日には楢原町・旭田村・江川村が合併して下郷町が成立。日本高度経済成長が始まると、当地にも昭和30年代半ばにはテレビ耕運機を手に入れる世帯が見られ、昭和40年代になると簡易水道が引かれて近代化の波が押し寄せ始めた。近代化によって、旧街道沿いの民家に赤や青のトタン屋根が目立つようになった。
県道下郷会津本郷線大内工区は未着工。周辺農地も圃場整備実施前。
1976年度(昭和51年度)撮影の国土交通省国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成)

昭和40年代初頭から外部の研究者らが当地の生活調査や建築物調査などで盛んに来訪するようになると、当地の旧宿場の街並みが再評価され、また、その街並みは住民の生活習慣や互助組織()に支えられていることが判明した。その一方、当地は近代化から取り残されて昔のままの生活が営まれているとも評価され、外部の研究者らが街並みの保存活動を始めた。1969年(昭和44年)6月26日朝日新聞記事で当地が紹介されたことに端を発し、連日のようにマスメディア・研究者・観光客が当地に詰め掛け、1970年(昭和45年)放送のNHK大河ドラマ樅ノ木は残った』のロケーション撮影も行われて注目を浴び、同年、外部の研究者らが下郷町や文化庁に旧宿場の保存を訴えた。このとき一部のマスメディアが、超高層ビルも建ち始めた都市部と比較して、当地が貧乏であるから茅葺屋根の家に住んでいる等と報道したため、住民は茅葺屋根の家に住むのをためらうようになり、住民による保存活動は盛り上がらなかった。

当地の近くで、1971年(昭和46年)より大川ダム1974年(昭和49年)より大内ダムの建設が始まると、住民はダム補償金や建設工事の従業収入を得た[1]。また、農業などの第一次産業中心の生活から、通勤して第二次産業第三次産業で現金収入を得る暮らしへと転換するようになった。1975年(昭和50年)の文化財保護法改正によって重要伝統的建造物群保存地区制度が導入されたため、福島県は大内地区に保存地区選定申請を打診したものの、住民は生活の近代化を望んで拒否し、旧街道は舗装され、新たに得た収入をもとに茅葺屋根をトタン屋根に葺き替えたり、台所風呂トイレの近代化をしたり、家屋の増改築をしたりするようになった。

街道の中央から両脇に付け替えられた水路

1987年に茅葺屋根の駅舎に建て替えられた湯野上温泉駅

東日本大震災後

2011年(平成23年)3月11日東北地方太平洋沖地震東日本大震災)が発生した。当地は、福島第一原子力発電所事故を起こした東京電力福島第一原子力発電所 (1F) から直線距離で100km以上離れている(1Fからの直線距離は概ね宮城県仙台市茨城県日立市より遠い)。しかし、震災によって会津鉄道では、団体観光客のキャンセルが相次ぎ(同年3月11日から翌2012年3月31日までの予約に対するキャンセル人数は84.9%)、通常の3月からの観光シーズンに増発する列車を取り止めて定期列車のみの運行になり、また、通常なら春の観光シーズンで渋滞する観光駐車場の周辺もガラガラ、観光バスも全く見られなかった(会津鉄道が団体観光客のツアー催行を実施できたのは秋の紅葉シーズン以降)。観光入込客数も2009年度に年間約116万人だったのが、2011年度は約58万人まで半減した。2013年(平成25年)、会津地方が舞台の1つであるNHK大河ドラマ『八重の桜』の放送の影響で、同年度は年間95万人にまで特異的に増加したが、震災後はおしなべて80万人前後で横ばいから微増程度が続いている。

子安観音堂付近から見た大内宿

祭り・イベント

交通

観光シーズンには福島県道329号湯野上会津高田線渋滞し、国道にまで影響が及ぶことがある[26]。会津若松方面からは、大内ダムを経由する福島県道131号下郷会津本郷線(大内宿こぶしライン)を選択した方が混まずに到達することができる。

一般車両および観光バスなどの駐車場は大内宿の南東にあり、宿場内への車の乗り入れは規制されている。観光シーズンには、より大内宿に近い有料駐車場で駐車待ちが発生する一方、大内宿から離れている無料臨時駐車場は空いている場合がある。

会津バスが大内宿を経由する路線バスを運行しているが1日数本しかなく、観光客には使い勝手が悪い。

湯野上温泉駅新千円札発行記念列車(2010年5月)

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